戦争記録の正確さⅡ~変電所犠牲者の記録~

前回の記事「戦争記録の正確さⅠ~東大和市戦災変電所について~」の続きとし、

今回も東大和市立郷土博物館(旧日立航空機株式会社変電所)の楢崎茂彌さん(以下写真)のご説明を基にご紹介します。

https://project-peace.amebaownd.com/posts/49389565?categoryIds=2994677


楢崎さんは、立川の戦争時の記録映像を作り、次の世代に伝える体験者の声を収集する活動を続けています。

調査活動の中で、空爆被害者の証言とアメリカ軍の記録をつき合わせ確認したいと思うようになり、ご自身で様々な調査をされています。

東大和市戦災変電所では1945年(昭和20年)の2月~4月にかけ

3回の爆撃と機銃射撃を受け、工場関係者、地域住民111名が犠牲となりました。


では、この空爆の状況と被害数はどのようにして今の私たちに伝えられているのでしょうか。

それは変電所がある日立航空機株式会社立川工場が作成しと推測される被害者記録が残されているからです。


以下の資料「昭和20年4月19日の空襲による死亡者と負傷者」は東大和市立郷土博物館に提供された被害者リストとなります。

詳細な傷病名と正確な死亡時刻記載されていることから、

医師が書いた、もしくは医師の指示を受けた人が正確に記載した記録であることが伺えます。

従業員13,000人以上が働いていた立川工場には診療所があり、その所長はかつて満州で従医をしていた経験があるということから、この記録を作成した責任者であること可能性が高いと楢崎さんは指摘しています。

なお、タイピングされた記録も残っており、こちらは手書資料の情報が更新され、内容がより精緻なものとなっています。

当時の情報局から出版された、国内向けの週刊の国策雑誌「週報」(昭和18年10月20日号)には退避命令が出たら20秒程度で退避できる所に待避壕(防空壕)を掘るようにという指示が掲載されています。


楢崎さんの推測では「退避警報から20秒で防空壕に入れということは、20秒後には工場内の持ち場に戻れという意味でもある」と指摘していました。


20秒以内に防空壕に入るということは、空爆のターゲットとなる工場内の防空壕に入るということです。この指示を守ったため、1回目の空襲では工場内で被害に遭われた方が多数いたため、その後は工場外に退避するように会社側も指示したと従業員たちは記録しています。


次回は、アメリカの記録を基にした被害分析についてお伝えします。

#Project ぴ~す

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